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25話 #nahive2qgpj02j4i

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萩原雪歩のマック=オンド

長い月日が流れてステージの上で百万のファンを目の前にしたとき、不意に萩原雪歩は思いだしたのだった。あのうだるような夏の午後、よりによってエアコンが壊れた日に食べたかき氷を。百万のサイリウムが星のように震えて、雪歩を呑み込もうとしているようだった。当時はあの男、プロデューサーもいたし、それに春香も、最後には文字どおり消えてしまったあの天海春香もまだ事務所にいて、いつも通りの明るさで皆の中心にいた。

雪歩が初めて春香を直接目の当たりにしたのは、春香がそのアイドル人生にわたってのパートナーであった如月千早とともに全国ツアーに飛び回っていた合間をぬって、顔を見せたときのことだった。人見知りの雪歩がようやく他のメンバーと打ち解けるようになってきたころで、彼女らと一緒に事務所で休憩していると、突然ドアが開き、どたどたと春香が、続いて千早が入ってきた。他の面々は親しげにおかえりなさい、お疲れさま、と口ぐちに声をかけ、初対面の雪歩の背中を押すようにして春香たちの前に立たせたが、同じ事務所に所属していると話には聞かされていても雪歩にとっての春香はそのときまでテレビの中の人でしかなく、初めてその彼女を間近に見て、緊張のあまり何も言えないでいると、春香はひと目見るや、「萩原雪歩ちゃんだよね? わたしは天海春香です、よろしくね!」と微笑み、声をかけてくれたのだった。この事務所に所属していながら彼女の名前を知らない者などいようはずもないのにわざわざ名乗ってくれたこと、自分のような新参の顔と名前を知ってくれていたことに雪歩は感激した。春香は人なつっこく千早のことも雪歩に紹介したが、千早は軽く会釈したのみで、舞台を降りたときには自分と同じく人好きがしない性格になるのだろうか、と雪歩は思った。

事務所の売り出し方はどちらを推しているという訳でもなかったのだけれど、雪歩にとっては二人のデュオであっても春香が主で千早が従だった。「けれど千早ちゃんのおかげで今の春香ちゃんがあるのよ」とあるとき小鳥が言った。それは雪歩が小鳥に向かってほとんど独り言のように喋っていたときのことで、言葉を挟まれた雪歩は自分がそれまでどんな話をしていたか覚えていなかったが、たぶん知らず知らず千早をくさし、春香ばかりを褒めるようなことを言っていたのだろうと思って、雪歩は赤面した。しかしそのとき高槻やよいが外から帰ってきて、小鳥が迎えるために席を立ってしまったので、その話の続きは聞けずじまいだった。

高槻やよいは雪歩たちの世代よりふたまわりも年上だったが、若い彼女たちを妹のように可愛がっていた。いまの春香たちほどではなかったにしろ、やよいも一時期はそれなりの人気を築いていたし、面倒見もよかったから、周囲に慕われていた。そもそもこの事務所が輩出した最初のアイドルであったから年季も長く、小鳥にしてみてもやよいは盟友のようなものだった。

だからやよいは千早がはじめて事務所に来たときのことを憶えていて、あるときの仕事の移動に二人で交わす会話のうちに、雪歩に語ることもできた。

「千早ちゃんって歌が上手でしょ」

「ええ、そう思います……間違いなく」

「それで、歌にストイックだと思うでしょ」

「そうですね」

「けど、千早ちゃん、初めて私が会ったときには、もっともっと、かたくなだったんだよ。それこそねえ、あの子には歌しかないってみたいに」

「もっとですか? それって……想像もつかないですね」

雪歩が冗談めかして笑ったので、やよいもつられて笑った。

何て細い子なのだろう、という印象、練習の合間に呼びだされ、高木社長が千早を紹介し、その姿をひと目見たときの印象をやよいは思いだせる。身体が折れそうに頼りなかっただけでない、青白い身体に似合わず燃える瞳の奥にある決意が痛々しさをはらんでいるのが彼女の堅く脆そうな印象を与えるのだとやよいは思った。

「私って歌が上手じゃあないでしょう」

とやよいが言うと雪歩はぎくっとした素振りを見せたが、返事を待たずやよいは言葉を続けた。

「千早ちゃん、それが気に入らなかったんだと思う。自己紹介代わりにって、いきなり歌い出したの」

驚くべきことに、そこで千早が歌ったのはやよいがついさっきまで練習していた新曲だった。圧倒され、言葉もなく見つめるやよいたちに挑戦するような目を千早は向け、歌詞こそないものの完璧に歌いこなした。歌とはこう歌うのだとでも言うようだった。

「なんだか千早さんらしい話ですね」

雪歩は少し笑った。

「うん。……それで私の練習していた曲が、急遽千早ちゃんのデビュー曲ということになったの」

「え、それって」

あれはもともとやよいのものになるはずの曲だったのか。雪歩が知らないはずもない、如月千早のデビュー曲といえば――

「そう、『蒼い鳥』」