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25話 #nahive2qgpj02j4i

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高槻やよいと百万の弟妹 (1)

 幾度となく訪れたこの上なく退屈な夏の午後、私たちが退屈しのぎに小鳥さん――事務員の音無小鳥さんに765プロの昔話をせがむと、彼女はすこしだけ思案顔になってから、それじゃあ今日はやよいちゃんの話をしようか、と言って微笑む。そうやって挙がる名は「やよいちゃん」だけでなく、もっと別の人の名前のこともあったけれど、小鳥さんが真っ先に彼女のことを思い出したとしても不思議ではなかった。というのも、記録上、765プロの最初のアイドルは高槻やよいその人だったからだ。私も彼女の話はお気に入りで、とくにオーディションの話は、小鳥さんの気が変わる前にとあわててお茶やお菓子の用意をする年少の女の子たちが期待するようなドラマチックなことがあったわけではないのだけれど、小鳥さんが懐かしんで話す姿が好きで、繰り返し聞いても飽きなかった。


 やよいの最初のオーディションはそのまま765プロの最初のオーディションでもあったから、その時はプロダクションの総力をあげてバックアップすることになったのだった。といっても、もちろん立ち上げたばかりの弱小事務所であったから、当時社長だった高木と、事務員の小鳥が付き添うというだけだったが。要するに二人とも暇だったのだ。

 その朝高木はいつになくぱりっとしたスーツに身を包んで現れ、その姿はまるで娘のなにかの発表会に行く父親のようだと思ったことを小鳥は覚えている。高木が車を回してくるあいだにやよいと小鳥は事務所で準備を終え、戸締まりをして、最後に入口の鍵をかけた。カチャリと音がしたとき、次にここへ戻ってくるときにはすべて終わっているのだと思って小鳥の鍵を握る手がわずかに震えた。

 会場は市民向けの施設の小さな一室を借りきってあるということだった。高木の運転する車が二人を降ろすと、何かは分からなかったが別の催しののぼりが等間隔に並んでいた。三々五々歩いている人びとの中にときどき少女たちの姿が見え、そして彼女たちだけがほかの人々に溶け込んでいなかったので、やよいと同じオーディションに参加するのだと見て取れた。当のやよいは車に乗っているときから口数少なく、降り立ってからもただその光景を眺めているだけであったが、高木が背中を軽く叩いて高槻くん、と声をかけると、のろのろとふたり並んで歩きはじめた。小鳥は日傘を差してその様子を眺めながら後ろをついて行く(この光景を話すときの小鳥さんはそれまでにもまして遠くを見るような目をしていて、たぶん、やよいさんのことではなくて、もっとずっと昔の――小鳥さんがそのときのやよいさんみたいな、今の私たちみたいな少女だったころのことを思い出しているのではないかと私は思うのだ)。待合室と呼んだほうがしっくりくる控室には長机が並び、すでに到着していた候補者たちが大勢詰めかけて微妙な間隔をあけて座っていた。高木はずんずんとその中に入っていくと、その間に三人分の場所を見つけてやよいと小鳥を呼んだ。その声が意外にも大きかったので、何人かの視線がじろりと高木に向けられた。それでやよいが気にするのではないかと思って、かえって小鳥のほうが緊張してしまった。その後も高木はオーディションを目前に興奮しているのか何かとやよいに話しかけようとするので小鳥は高木に、事務所に置いてきたあの仕事はどうなっているか、とか飲み物が要るのではないか、とか口を挟んではやよいの邪魔をしないようにと呼吸にすら気を遣うありさまで、こんなことならついて来なければよかったと半ば後悔しかけていたほどであったが、そんな小鳥の様子を知ってか、やよいは次第に小鳥と目を合わせることもしなくなり高木から受け取ったペットボトルに少し口をつけたきり黙りこくっている。やがて出番の近づいた参加者たちが呼ばれ、やよいもぞろぞろと移動する参加者の中のひとりとなって小鳥の手の届く場所を離れてしまった。小鳥は頑張って、と声をかけるのが精一杯だったが、しかしやよいは意外にもしっかりと微笑んで、あとはふり返りもせず即席の舞台に向かっていった。


 ここで小鳥さんは話を引き延ばして私たちを待たせることもできた、さてやよいさんはこの後どうなったのか? そう言って焦らしたままお茶を飲んでひと息つくこともできたが、それをすることはなかった。結果は聞き手のほとんどが知っていることだったからだ。やよいさんの最初のオーディションは合格だった。だから小鳥さんは何ごともなかったみたいに続けたものだ。


 帰りも高木の運転だったが行きに饒舌だったのとは打ってかわって静かな運転だった。ただその顔が不意にほころんだり挑戦的な目つきをしたりするのを小鳥は助手席で横目に見ていた。やよいは後部座席で疲れきったような呆けたような様子で窓の外を見ている。カーラジオのほかは車内は無言であったがそのぶん今日の興奮が各々の内で反復され増幅されるようで、しだいに小鳥もやよいや高木のことがこれまでになく愛おしく思えてきた。事務所の入った雑居ビルまでもう少しというころ、高木がようやく口を開いて言った。「やよいくん、家の門限まではまだあるだろう。今日は事務所で出前でも取って、お祝いといこうじゃないか」

 帰り着くやいなや自らいそいそと店を探しはじめた高木をよそに、小鳥はことが終わってはじめてまともにやよいと向かいあっていた。ソファに腰かけてジュースを飲んでいるやよいの額にはうっすら汗がにじんでいて、その腕の細さや幼い顔つきを見るにつけ、小鳥はこの娘に綺麗な衣装と化粧をあてがって、一流に育てあげなければならない、それが私たちの責任だ、などとひとり誓ったりしていて、出前はピザがよいか寿司がよいかそれとも、と悩む高木の声には気づかないでいた。やよいは飲みほしてようやくひと息ついたらしく、自分のマグをテーブルに置くと、「小鳥さん、」とオーディション前の不思議なことを語りはじめた。

 たった数時間前の出来事だが遠い昔のことのようにも思われた。いよいよやよいの出番が近づいてきて、順番待ちの少女たちがまとめて呼ばれると、やよいは小鳥たちから離れて座らなければならなくなった。その時にはやよいにも小鳥たちの期待や緊張が言葉にせずとも伝わってしまっていたので、やよいはひとりになってむしろ安心した、という。さて、新しい椅子に腰をかけたやよいは、出番までの最後の数分間、何をして待っていようかと考えた。頭は意外と冷静だ。ただ、うまくやれる自信はない。このあいだのレッスンで指摘されたことはなんだったろう、喉がからからに渇いている気がする……、などと考えるたびに不安が頭をもたげるのをなんとか抑えようとして、やよいはいつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げた。その目の前には壁が見えたが、その一点にある小さな汚れ、しみのようなものが、やよいの目をとらえた。それは事務所にあるあのドアのうす汚れた感じと似ていたのだ。そして、ドア越しに何度も聞いたことのある歌声にやよいは気づいて、耳をすませた。


 そのドアの上には高木の字で「資料室」と銘打ってあった。高木が765プロを立ち上げたとき、まだアイドル候補生のひとりもおらず、小鳥と二人で、手始めに事務所の体裁を整えようと、間借りした小さなビルの一角を掃除していたときのことだった。ドアを開けるとそこは薄暗い小さな部屋で、前の借り主が置いていったのであろうスチール棚だけが、ほこりを被って沈黙していた。高木はこの部屋をいたく気にいって、ここはわが事務所の歴史資料室にしよう、設立からの歴史をここに保存していくんだ、と言うと、掃除もそこそこに、ひとりでドアに掲げるプレートをつくり始めた。小鳥もべつに急ぐわけでもなかったので、高木のするままにさせておいて、自分はお茶の時間にすることに決めたものだった。そのときは明かりもなく薄暗かったが、窓を全開にして光を取り入れればくつろげないこともなかった。小鳥がペットボトルの緑茶を飲んでいる間に高木は工作を終えて満足げだった。始まったばかりのプロダクションにこれまでの記録などあるはずもなかったので、結局その部屋は、事務所の備品を置くだとか、もしかしたら使いでがあるかもしれないと思って持ってきた私物が結局日の目を見ずに最終的に送られる場所になっていった。

 やよいが765プロに籍を置くようになったころにはすでに物置であったその部屋に、やよいは入ったことがなかった。小鳥が荷物の出し入れをするために開けるドアの隙間から覗いたり、いつも行き帰りのおりにその前を素通りしたりするだけがせいぜいだったのだが、不思議なことに、ときどきその部屋から歌声が聞こえてくることがあった。少女の歌であることはわかるが何の歌かはわからない、そういう歌声だった。まさかあの一日に10分と明かりともらない部屋に人がいて、やよいの知らぬまに事務所にあらわれて歌の練習をしているのだとも、しかし昼間の幽霊であるとも考えづらく、やよいはその声の正体を確かめることなくしだいに自然と風景の一部として受けいれるようになってしまっていた。


 その歌だ、その声が、重苦しい空気のオーディーション会場のパイプ椅子に座って順番を待つやよいの耳にたしかに届いたのだった。あの歌詞もわからない歌をこんな所で聞くことになるとは思わなかった。はじめそれは幻聴かとおもわれたが周囲を見てみても誰ひとり、遠くの席で座っている小鳥すらも気がついていないようだったのでたしかに幻聴なのだった。参加者たちが勝手に立てるざわめきを貫いて聞こえるその歌にやよいが耳を傾けようとしたとき、やよいの名が呼ばれた。オーディションの順番が回ってきたのだ。

 そこまでやよいの話を聞いた小鳥は、高木の「出前は寿司でいいかな」という声に顔を上げると、こう言った。

「いいですね。それじゃあ春香ちゃんも呼んでみませんか?」

 やよいは春香、という名前を聞いてきょとんとしていたがあながち聞き覚えのないわけでもなさそうな表情だった。何かの折に小鳥が漏らしたことのあったのかもしれなかった。

 小鳥はやよいが見守るなか例のドアの前に立ち、手の甲でコンコンと叩いてみた。「春香ちゃん」と声をかけても反応はなく、ふり返ると困ったようにやよいに笑いかけた。やよいは小鳥がなにを期待しているのかもわからないといった風で、ただ小鳥の表情にあわせてぎこちなく笑みを返しただけだった。小鳥は気を取り直してまたドアをノックすると、今度はドアノブに力をこめて……ゆっくりと捻った。と、小鳥がドアを開こうとするよりも早く、ドアはひとりでに開き、隙間から風が事務所に流れこんできた。小鳥は意を得たりというふうに高木と目を合わせ、ドアはその間にも大きく開いて風はやよいの額を撫でた。そうして部屋には、少女が、天海春香が立っていたのだ。