野矢茂樹『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学』
- 作者: 野矢茂樹,植田真
- 出版社/メーカー: PHPエディターズグループ
- 発売日: 2001/02
- メディア: 単行本
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ものすごく昔に買ったおぼえがある。たぶん大学生協とかで売っていたのを見かけて、読むと格好いいかなとか思って買ったのじゃないだろうか。10年以上開いてなくてひどい体たらくだ。
考えることとはどういうことか、からはじまるエッセイのようなもので、口語で文体をあえて平易にしてあるので中高生くらいをターゲットにしてるのだろうかと思う。だけどやりすぎの感があって、ばかにされてると感じやしないだろうか。図表はなくて雰囲気を描く絵がけっこう多く挟まれていて、そういうコンセプトらしい。が、全体的にいまひとつ小洒落感に欠けてるので、結局想定読者がわからなかった。
で、考えることについて。考えることというのは本当に四六時中そのことを思い浮かべていることではなくて、問題との緊張を保ちつづけることである。そして当の問題が解決するまでは、問題じたい何なのかってのは本当には分かっていないもの。なるほどね。
そして考えることの道具としての論理と常識。論理ってのは考えないための道具で、いわば九九のようなものである。常識は欠けていればフレーム問題を引きおこす。
考えることは現実からはなれた可能性を想うこと。そのためには言葉がなければならない。ティーカップの可能性はあらゆるものを考えられる。大海の上に浮かぶティーカップや底から紅茶が無限に湧いてくるティーカップすら考えられる。逆にティーカップの不可能性は? という話になるのだけど、ここが面白くて、具体的な例は忘れたけど「割れていてかつ割れていないティーカップ」とか、論理のレベルまで上がらないと不可能性を導き出せない。論理は言葉の産物だから、考えることには言葉が必要なのだ。
そして言葉は常に他者との関わりの中にある。「自分の頭で考える」という物言いは少なくとも表面的にはおかしなもので、心を世界に開くことが考えることなのである。という話。最後は適当。