25話 #nahive2qgpj02j4i

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秋月律子と知らない名前

高木が死んでからというもの、音無小鳥はすっかり衰えてしまった。それまでは何年経っても変わらぬ若さを保っていて、律子もいつか私の方が小鳥さんを追い越して、先におばさんになってしまうのではないかなどと危ぶんでいたものだったけれど(それどころか、後になって事務所のアルバムを整理していた時にふた昔は前の初代アイドル高槻やよいと同年代の友達のようにして写っている写真すら見つかった)、それも高木の葬儀が終わるまでのことだった。しばらくは雑多な事務処理とかほうぼうとのやり取りに二人とも追われていたが、それが一段落して数日間の休業を挟んで事務所を訪れると、律子は小鳥のその変わりように目を疑った。小鳥の背中はすっかり曲がってしまって、まだ若々しさを保ってはいた肌も乾燥し皺だらけになってしまい、まるで同一人物とは思えなかった。休んでいた間に何があったのかは分からずじまいであったが、律子にはついに時間が小鳥に追いついたのだ、と思えてむしろ腑に落ちもした。葬儀が終わった直後に話したときに二人で一緒にプロダクションを切り盛りしましょう、と言い合った口約束も今となっては虚しく、小鳥がそのときのことを覚えているのかすら定かではなかった。

プロダクションに係る業務も次第にその数を減らしてゆき、律子が事務所に顔を出しても小鳥の昔話の相手をしたりアイドル候補生のひとり双海亜美の宿題の面倒を見てやったりするほかには何もすることがないという日々が続いた。今日も亜美は机に向かってひとり騒ぎながら宿題と格闘している。以前なら叱りつけて無理矢理黙らせていたその喧騒も今は気休めのようになっていて、どことなく律子を安心させた。今日のように天気のいい日には物置部屋に日が差すので、そこで高木の遺品を整理した。高木はこと細かに日誌をつけていて、プロダクションの歴史をすべて見てきた人のものなのだからその厖大な量の記録が律子の興味を惹かないはずはなかった。残る生き証人は小鳥だけであったが、片付けられていない物置部屋で日誌のページをめくりながらその様子を窺うと、背の曲がった小鳥がぼんやりとテレビを見ているのがわかった。この番組に我々もアイドルを輩出するのだと、高木と小鳥、ふたりで息巻いていた音楽番組だった。それはふたりが若い頃から、それこそ高木が独立する前、大きなプロダクションの駆け出しプロデューサーで、小鳥がそのアイドルだったころからあって、多くの若者たちにとって憧れの番組だったし、後の世では伝説と呼ばれすらした。これに一度は小鳥も挑戦したことがあった。その当時はスーパーアイドルなんてすぐに手が届く存在のように思えていた。高木と小鳥には敵などなにもない、最強のふたりのはずだった。それに女の子たちの脚も今ほど細くはなかったわ、と思って小鳥はひとり笑いをした。けれど現実は甘くはなかった。

「今日はここまでですね」

審査員の一人は不意に席を立つと、まだ歌の途中であった小鳥には一瞥もくれることなく会場を退出していった。残る審査員たちもどことなく白けたムードだったが、小鳥はそこで歌い続けることしか知らなかった。その審査員が帰っていったドアに向かって声を届けようと笑顔のままもがいた。安っぽい照明の中、自らの手を噛みかねない様子でこちらを見守っている高木にも小鳥は微笑みかけた。汗がだらだらと流れて小鳥の肌にまとわりついていた。そうして小鳥は最後まで歌いきった。 あまりにあっけなく終わってしまったオーディションの帰り道、高木の運転する車の助手席に座って小鳥は無言のままだった。赤信号を見つめたまま高木はぽつりとすまなかった、ぼくのミスだ、と言ったが、小鳥は別に高木が悪いなどと思ってはいなかった。オーディションのときの笑顔が貼りついてしまったかのようにニコニコしていて、自分に責任があるとも思ってはいなかった。車内ではふたつの決心が別々に結ばれようとしていた。高木は雪辱を期した。必ず高木の手になるアイドルが、あの番組に出演しなくてはならない。そう決意していたと、後になって小鳥は聞いた。いっぽうの小鳥はというと、オーディションに出演していた競争相手たち、アイドルたちに魅せられて、知らず、虜になっていた。レベルが違いすぎたのだ。あれほどの輝きに、彼女はまた触れたいと願った。どのような形であれ彼女の手の届くところにあることを望んだのだった。かくして二人の思いは奇妙に一致して、その後の人生を大きく変えることとなった。しばらく経ってから、高木が独立して事務所を開くのだと小鳥に持ちかけたとき、小鳥はそのオーディションを久しぶりに思い出して、それから、高木についていくことに決めた。

「律子ちゃん見て! ほら、春香ちゃんと千早ちゃんが出てるわ」

「そうですね、小鳥さん」

呼ばれて見てみると、たしかにテレビには往年のアイドルふたりの姿が映っている。765プロ最高のアイドル。

「それ、録画ですけどね」

「そう、すごいわ、二人とも。すてきね」

小鳥は飽き飽きした表情の律子の答えなど耳に入っていない様子で画面を食いいるように見ている。春香と千早がこの番組に出演したとき律子はたしか小学生だったから、律子自身もその当時のことは直接には知らない。ただ以前の日誌を読んだときに興味を惹かれて録画を探し出し、再生してみただけだったのだ。一時は、それこそ黄金期にはもてはやされていたこの番組も時代の変遷とともによくある番組のうちのひとつという地位に甘んじ、やがてそのことを恥じるかのようにひそかに終了してしまった。古ぼけたその録画を飽きもせず小鳥は見続けていた。テープは大量にあったからその行為には終わりなどないかのようだった。

律子は片付けに戻ろうとしたが、ふと思いたってプロデューサーの残した書類を整理することにした。気分転換だ。あの男――プロデューサーの書類には、その失踪直後の数日のあいだに触れたきりだった。気が重くて倉庫にうっちゃっておいたものの捨てる気にもならなくて、ずっと放置されていたのだった。誰かが誤って蹴飛ばしてバラバラにしてしまったのを慌てて取り繕ったのだろうか、取り出してみた書類の束はところどころ汚れ、なにより順番がバラバラになっていた。時間の流れに沿って書かれていると思いこんで読んでいると、律子について書かれているメモ(一人前になるにはまだ経験が必要、などと偉そうな寸評が書かれているのを見て、律子は眉をひそめた)の後に今日から入社、などとその頃にはまだ気持ちも若かったのであろうプロデューサーの所感に行き当たり、さらにその直後のページでは伊織の引退会見が開かれており律子を困惑させた。これを正しく並び替えることははなから諦めて、まったくでたらめに手にとって読んでみてはふたたび書類の山に戻すのだった。高木によるものではないこれもプロダクションの歴史なのではあった。ただ律子はその歴史に溺れに行っているだけだった。 次はどの時代に行き当たるかとページをめくっていると、律子の目が、亜美の名前を捉えた。ああそういえば亜美を発見したのはあの男の残した手記を読んでのことだったな、と律子は思い出した。

亜美は失踪したプロデューサーのメモをたよりに探しあてたアイドル候補生だった。律子の前に初めて姿を現したときの亜美はおびえているかのようで、そうやすやすと心を開いてくれそうにはなかった。実際には事務所に通うようになると、すぐに打ち解けてリラックスした様子を見せるようになったのだけれど。記録にあったとおりであったがすでに幾度かプロデューサーは彼女の家を訪れていたらしく彼女を事務所に迎え入れる話はすぐにまとまった。しかし問題はその能力にあった。才能の片鱗のようなものを感じはするのに、それを十分な域まで引きだすことができないでいた。亜美は一度覚えたはずのことを忘れてしまう癖があった。その時その時は真剣に話を聞いているのに、あとからその話をしても聞いていたことすら忘れているのだった。これではレッスンなどしようがなく、そのまま数年が経ってしまっていた。彼女の両親との約束があるので、こうして子守りのようなことは続けているものの、この様子では芽が出ることもないまま事務所のほうが先に終わってしまいそうだったが、まあ、亜美はまだ中学生だから何とかなるでしょう、と律子は気休めに思っていた。 しかし律子が手記をもう一度見たとき、書いてあったと思っていたのは亜美ではなくて別の名前だった。初めて見る名前、今まで事務所に所属していたどの人物とも違う名前だった。ばらばらになったページの中に突然現れた名前だったから文脈は分からなかったし、時代も分からなかった。けれど、その名前はこう書いてあった――双海真美

律子が手記を書類の山に戻すと、ほこりが舞いあがって、傾きかけた日の光に踊った。いまだに賑やかな亜美の声に律子は耳をすませた。あれはひとりごとではなかったんだ。物置部屋を出るとテレビを見ている小鳥のそばに、ノートに向かう亜美の姿があった。いや、詳しいことは分からないにしても、あの名前、プロデューサーの残した記述を見る限りでは……

「亜美、あんた、一人じゃないのね?」

「……遅いよ、律っちゃん」

顔を上げると、真美は困ったような顔で微笑んだ。