25話 #nahive2qgpj02j4i

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米はこびの歌

ヘッドホンの耳あてから粘土のにおいが。これがアレか、そうなのか……。


「なあ、あれ、天海春香じゃねえ?」

 アマミハルカ、と聞いても酒に曇らされた頭では最初なんのことだかわからなかった。長々と続いた乾杯の挨拶が終わると友人たちは堰を切ったように飲みはじめ、つられた僕もいつも以上のペースでアルコールを摂ってしまっていたせいだ。同じ円卓についた面々とは数年ぶりの再会で、話がはずんでいたこともある。食事もなかなかのもので、隣の友人が声をかけてきたとき、僕はちょうど肉料理を終えたところだった。

 彼が顎で指すのは、マイクを手にして新婦に語りかける女性の姿だ。新婦の名は……千早さんだったか。若いころにほんの少しだけ、アイドル事務所に所属していたことがあるらしい。さっき新郎新婦のことを紹介するビデオが流れたときにそのことに触れ、秘密をばらしてしまったみたいな、ちょっと恥ずかしそうなそぶりを見せていた。新婦の友人席から小さな歓声があがって、すぐに消えた。ほんの少しのことで、すぐに次の話題に移ってしまったけど。どうりで美人の嫁さんだ、果報者、などと僕らはテーブルで騒いでいた。カホウモノなんて生まれてこのかた口にしたこともなかったので、このさい一生分言いきってやったくらいだ。当の新郎は酒に弱いくせに調子に乗って飲みすぎてしまったみたいで、ビデオが終わるころにはもう酩酊の様相をみせていた。

 天海春香といえば、僕が名前を聞いてわかるくらいだから、そこそこ有名どころのアイドルだろう。遠目に見れば旬は過ぎたようだが、まだまだ十分現役をはれそうな容姿と佇まいだ。などと批評家ぶってみる。いや待てよ、デビューしたてのころの彼女のグラビアを目にしたことがある気がするぞ……。あの教室で回し読みしてたマンガ雑誌の、と思って隣を見ると、友人はこちらを見てにやにやしている。たぶん同じことを考えていたのだろう。すると僕などはむしろ足を向けて眠れないほうだろう。あの頃にはずいぶんとお世話になったような気もする。

 いまの彼女は参列客の女性のなかでも地味な装いだったし、席次表を見てみても芸名の天海春香ではない、たぶん本名で載っていたので、知っている人が見ても気づかなかったかもしれない。宴も終盤に差しかかり、ほとんどのテーブルができ上がっていて、気づいている人など僕ら以外にいないのではないかとすら思われた。

 そう考えている間にも天海春香は千早さんとの馴れ初めを語っている。どうも千早さんがアイドルをやっていたのは本当に一年とかそこらのことらしく、それだけの短い間に二人はとても親しくなったらしい。その後千早さんは花開かぬまま事務所を去り、一方の天海春香はデビューを果たし、スターダムを着実に登っていったわけだ。もちろんそんなことは話さなかったけど。新婦友人代表の言葉だ。たった十数か月のあいだに生涯の友人ともいえるのほどの仲になったのか、この二人は、と考えると不思議だった。隣でビールのお代わりを注いでいるこの男とも長い付き合いだが、最近はずいぶんとご無沙汰にしている。彼は僕のことを一番の友人だと思ってくれるだろうか?

 ついでに自分もビールを注いでもらっていたら、ふいに天海春香の声がとだえた。話はBGMみたいにずっと続くもんだと思っていたので、僕はつい顔をあげたのだった。それで気づいてしまった。彼女は嗚咽に次の言葉を継ぐこともできないようで、マイクを握りしめたっきりだ。泣いていたのだ。しかし客のほとんどはそれぞれのテーブルでの会話に盛りあがっていて、彼女のことには気づいていない。まるで僕だけが彼女の言葉を聞いているみたいだった。それと千早さんと。しかし天海春香はさすがにプロだ、すぐに気を取りなおして次の言葉を続けた。

「千早ちゃんはただの女の子だった私のことを知っていて、だから、私の全部を知っているんです。それはこれからもずっとそうです」

 それでどうして彼女は泣くのだろう。天海春香がアイドルになるために、後においてきた少女時代はすべて千早さんの中にあって――それは千早さんの結婚とともに消え失せてしまうのだろうか。そんなことはないはずだ。いまの人生がいかに変わったところで積み上げた過去が失われるものでもないはずだ。天海春香の表情を見れば分かるとおり、彼女はけして悲しんでいるのではない、むしろ言祝いでいるのだ。天海春香というアイドルのその出自、夢みるひとりの少女であった時代から連綿と続く彼女自身、そのルーツが如月千早というひとりの人の中にしっかりと存在すること、そのことを全幅の信頼をもって信じられることが彼女には嬉しいのだ。それをこの大勢の人と千早さんその人の前で言えることが、誇らしいのだ。それだから僕は拍手した。天海春香は深々とお辞儀をして自分の席に戻っていった。千早さんは上気した顔をして、いまにも天海春香に飛びつきそうでもあった、だがそうすることはなかった。

 最後に僕たちは酩酊状態の新郎と千早さんを囲んで記念写真を撮った。彼にはいい人にめぐり合ったな、とだけ言ってやった。彼はにやりと笑ってみせたが、あとはただ眠そうだった。千早さんには、良いスピーチでしたね、と声をかけた。彼女は嬉しそうに、はい、と応えた、その笑みに僕は、天海春香が千早さんの中に見いだしたものを、千早さんも天海春香の中に見ていることを知った。それでそういう関係は永遠なのだろうと思った。笑う彼女はただただ美しく、少女のようだった。